延命治療はしたくないの前に立ちはだかる3つの壁
延命治療はして欲しくない。
セミナーなどで聞いてみると、こう考えている人が多いです。ほとんどの方がそうかもしれません。
一方で、“延命治療はしないで欲しい”といった緊急時のことや意思の疎通ができなくなったときに家族が決めなければいけないことは、エンディングノートに書いておくだけでは叶わない可能性が高いのが、現実のようです。
目次【本記事の内容】
延命治療はしたくないの前に立ちはだかる3つの壁
エンディングノートだけで叶わないのはなぜ?と気になってたどり着いたのがこちらの本。「延命治療で苦しまず 平穏死できる人、できない人」(長尾和宏/PHP)
平穏死とは?
あまり馴染みのない内容が続くので、一度読んだぐらいではすっと頭に入ってきません。
この本では「非開始」による尊厳死のことを「平穏死」と紹介されています。正確さに欠けるかもしれませんが、便宜上、過剰な治療・過剰な延命治療をしないで死ぬことを平穏死と理解することにしました。
平穏死をするためにはこの3つの課題があると書かれています。
- ①本人の課題
- ②家族の課題
- ③主治医の課題
本人の課題
延命治療はして欲しくない。
普段はこう思っていてもいざ病気になってしまうと、自分の病気を治してくれる名医がどこかにいると信じて探しつづけたり、最期まで治療を続けた結果、やりたいことができなくなってしまうということ。
家族の課題
本人は延命治療を望んでいないと知っているのに、いざもしものときに直面すると一分一秒でも長生きして欲しいと考えて、本人の希望よりも家族が延命治療を希望してしまう。
亡くなる本人と残される家族を前にすると、医師や病院も家族の意向に耳を傾けがちなんだそう。こうした状況は容易に想像できますよね。
主治医の課題
- 病気を治すこと
- 少しでも長く生きてもらうこと
これを医師の使命と考えているので、治療をしないという選択を受け入れ難い医師が多い。
普段はそう思っていなくても、もしものときにはこういったことが起きる。仮に自分自身の課題は乗り越えることができたとしても家族や主治医の課題を乗り越えるには、事前のコミュニケーションがとても重要だということが書かれています。
もうひとつの大きなファクターは、尊厳死法案「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」の行方ということです。
救急車を呼ばないという覚悟も必要です

過剰な延命治療をしないで平穏死をするためには3つの課題だけでなく、さらに衝撃的なことが書かれていました。
救急車を呼ぶという行為は、救急救命処置のあとに待っている延命治療をも希望する意思表示です
延命治療で苦しまず 平穏死できる人、できない人
自宅で倒れて救急車を呼んだ場合
駆けつけた救急隊員が救命処置として人工呼吸器をつけたとしましょう。それはこういうことが起こる可能性があると書かれています。
- 不幸にして意識が戻らなくても一度取り付けた人工呼吸器を外すことは難しく、これが延命処置になりうる
- 救急車を呼ぶということは救命処置だけを求めているようで、実は最終的にそうなるかもしれない延命治療をも希望していることになる
かなり専門的な内容なので素人の僕が十分に理解できているのか不安もあります。気になった方はぜひご自身で読んでみてください。
本人が延命治療を望んでいないと家族が十分に理解していても事故や病気で急変した状況を前にして、救急車を呼ばないということがはたしてできるのか、とても難しい問題です。
余命を宣告されているような状況ならどんなことが起きても救急車は呼ばないという覚悟をもって対応することができるかもしれませんが、現実に起きると気が動転してしまうこともあるでしょう。
- これは救急車を呼ぶべきか?
- そうじゃないのか?
迷ってしまうと・・・どうしていいのかわからなくなりそうです。
だから、延命治療をしたくないという希望を家族に伝え、家族にも十分理解してもらう。そして主治医にも理解してもらう。延命治療をしたくなければ、これでもまだ足りないかもしれません。
救急車を呼ばないという覚悟。
奥様に覚悟を決めてもらえたことで、延命治療をしないエンディングを実現されたのが流通ジャーナリストの故金子 哲雄さんです。
金子からは「僕が死んでも、救急車を呼んではいけないよ」と、口酸っぱく言われていました。病院での死はそのまま扱われますが、在宅で死を迎えた場合、救急車を呼んでしまうと不審死扱いになってしまい、その後が面倒になるというのです。
僕の死に方エンディングダイアリー500日
場合によっては、望んでもいない延命治療を施される可能性もあります。金子は、延命治療をまったく望んでいませんでした。
奥様は金子さんの呼吸が止まったのを確認した後で、救急車を呼ばずに在宅医療でお世話になっていた医師に連絡して死亡診断書を書いてもらったそうです。
もしも救急車を呼んでいれば、金子さんの最期は本人の希望とは違ってしまったかもしれません。
そのエンディングノートは役に立ちますか?
長尾医師が「平穏死するのに、エンディングノートが本当に役に立ちますか?」と疑問を投げかけるのは、平穏死を実現するのにエンディングノートだけでは不十分だと思われる人を何人も見てきたという経験からです。
いざ、肝心なときにエンディングノートが出てこないことが多いから・・・
仮に出てきても、家族がそれを理解・納得していなければ、尊重されるとは限りません
そもそもエンディングノート自体が日本では法的な根拠を持ちません
延命治療で苦しまず 平穏死できる人、できない人
こういった記述を読むとエンディングノートは本当に役に立つのかな?と思ってしまいます。
また、この3つの要件がそろわないと現実にはなかなか平穏死はできないということがこの本の中で繰り返し述べられています。
- ①本人の意志
- ②家族の理解
- ③主治医の支援
さらには、三者(本人・家族・主治医)の思いを確認するために、ときにはそれぞれの意見を腹を割って話し合う場が必要だとも。
医療の現場のことに詳しくない僕でも、エンディングノートに「平穏死を希望する」と書いておくだけでは不十分だということは理解できました。
エンディングノートの存在意義とは?
突然、何か起きたときには気が動転してしまい、前もって話ができていたとしても記憶があいまいになってしまうことは想像できます。
いざという時に「お父さん、なんて言ってたっけ?」じゃ意味がありませんよね。それに子供が何人かいたら「お父さんはそんなことは言ってなかった」と話が食い違うことだって考えられます。
だから、たとえ腹を割って話しができたとしても時間が経てば忘れてしまうかもしれないので、後日確認できるように大切なことを書きとめておくこともエンディングノートの1つの使い方です。
そもそも、何かしらきっかけがなければ、将来の医療に対する希望を家族で話し合うことはハードルが高いだろうと思うので、そのきっかけをつくるのがエンディングノートの存在意義でもあると思います。
僕自身も両親にエンディングノートを渡したことがきっかけで、時間はかかりましたが両親から延命治療や介護についてどう思っているのかを聞くことができました。
終末期の医療の希望についてエンディングノートを書くことは、家族や大切な方と話をする前提として、自分の頭の中を整理するために使うのが基本的な使い方なのかもしれません。