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死後の準備はエンディングノートだけでは足りない

エンディングノートは多くのことを書き留めておくことができますが万能ではありません。エンディングノートでできることの限界を理解しておきましょう。

「延命治療はして欲しくない」とエンディングノートに書いておいただけでは叶わないのが現実のようです。

延命治療の希望とエンディングノートの限界

延命治療はして欲しくない

セミナーなどで聞いてみると、こう考えている人が多いです。ほとんどの方がそう思っているのかもしれません。中にはこう打ち明けてくださった参加者の方がいました。

私は自分で意思表示をすることができなくなったときに備えてエンディングノートをはじめ、いくつかの方法で延命治療を望まないという意思表示を準備しています。

それでも子供から「必要なことはするつもりだ」と言われました。

この方の残念な気持ちを理解する一方で、親には1分でも1秒でも長生きして欲しいというお子さんの想いもよくわかります。でも親に長生きして欲しいという願いこそが、本人の望まない延命治療を家族が選択してしまう理由かもしれませんね。

延命治療はしたくないの前に立ちはだかる3つの壁

なぜエンディングノートを書いておくだけでは叶わないのだろう?と調べていてたどり着いたのが「延命治療で苦しまず 平穏死できる人、できない人」(長尾和宏/PHP)という本です。

「平穏死するのに、エンディングノートが本当に役に立ちますか?」と長尾医師が疑問を投げかけるのは、平穏死を実現するのにエンディングノートだけでは不十分だと思われる人を何人も見てきたという経験からです。

いざ、肝心なときにエンディングノートが出てこないことが多いから・・・

仮に出てきても、家族がそれを理解・納得していなければ、尊重されるとは限りません

そもそもエンディングノート自体が日本では法的な根拠を持ちません

延命治療で苦しまず 平穏死できる人、できない人

読んでいると、エンディングノートは本当に役に立つのかな?と思ってしまいます。

また、本人の意志、家族の理解、主治医の支援という3つの要件がそろわないと現実にはなかなか平穏死はできないということが本の中で繰り返し述べられています。

この本では「非開始」による尊厳死のことを「平穏死」と紹介されています。正確さに欠けるかもしれませんが、便宜上、過剰な治療・過剰な延命治療をしないで死ぬことを平穏死と理解することにしました。

平穏死をするためには3つの課題があると書かれています。

  • ①本人の課題
  • ②家族の課題
  • ③主治医の課題

①本人の課題

延命治療はして欲しくない。普段はこう思っていてもいざ病気になってしまうと、自分の病気を治してくれる名医がどこかにいると信じて探しつづけたり、最期まで治療を続けた結果、やりたいことができなくなってしまうという現実。

②家族の課題

本人は延命治療を望んでいないとわかっているのに、いざもしものときに直面すると1分1秒でも長生きして欲しいと考えて、本人の希望よりも家族が延命治療を希望してしまう。また、亡くなる本人と残される家族を前にすると医師や病院も家族の意向に耳を傾けがち。こうした状況は容易に想像できますよね。

③主治医の課題

病気を治すこと、少しでも長く生きてもらうこと、これを医師の使命と考えているので、治療をしないという選択を受け入れ難い医師が多い。

普段はそう思っていなくても、もしものときにはこういったことが起きる。仮に自分自身の課題は乗り越えることができたとしても家族や主治医の課題を乗り越えるには、事前のコミュニケーションがとても重要だということ。

さらには、三者(本人・家族・主治医)の思いを確認するために、ときにはそれぞれの意見を腹を割って話し合う場が必要だとも書かれています。また平穏死を叶えるためのもうひとつの大きなファクターは、尊厳死法案「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」の行方ということです。

救急車を呼ばないという覚悟も必要です

救急車のイメージ

過剰な延命治療をしないで平穏死をするためには3つの課題をクリアするだけではまだ足りないようです。さらに衝撃的なことが書かれていました。

救急車を呼ぶという行為は、救急救命処置のあとに待っている延命治療をも希望する意思表示です

延命治療で苦しまず 平穏死できる人、できない人

自宅で倒れて救急車を呼んだ場合に駆けつけた救急隊員が救命処置として人工呼吸器をつけたとしましょう。それはこういうことが起こる可能性があるということです。

  • 不幸にして意識が戻らなくても一度取り付けた人工呼吸器を外すことは難しく、これが延命処置になりうる
  • 救急車を呼ぶということは救命処置だけを求めているようで、実は最終的にそうなるかもしれない延命治療をも希望していることになる

ここまで読んで、医療の現場に詳しくない僕でもエンディングノートに「延命治療をして欲しくない」と書いておくだけでは不十分だということが理解できました。

しかし、本人が延命治療を望んでいないと家族が十分に理解していても事故や病気で急変した状況を前にして、救急車を呼ばないということがはたしてできるのか、これはとても難しい問題です。

余命を宣告されているような状況ならどんなことが起きても救急車は呼ばないという覚悟をもって対応することができるかもしれませんが、それでも現実に起きると気が動転してしまうこともあるでしょう。救急車を呼ぶべきか?そうじゃないのか?一瞬でも迷いが生じるとどうしていいのかわからなくなりそうで怖いです。

「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」を読んで、流通ジャーナリストの故金子 哲雄さんが延命治療をしないエンディングを実現できたのは、奥様に覚悟を決めてもらえたからという理由を知りました。

金子からは「僕が死んでも、救急車を呼んではいけないよ」と、口酸っぱく言われていました。病院での死はそのまま扱われますが、在宅で死を迎えた場合、救急車を呼んでしまうと不審死扱いになってしまい、その後が面倒になるというのです。

場合によっては、望んでもいない延命治療を施される可能性もあります。金子は、延命治療をまったく望んでいませんでした。

僕の死に方 エンディングダイアリー500日

奥様は金子さんの呼吸が止まったのを確認した後で、救急車を呼ばずに在宅医療でお世話になっていた医師に連絡して死亡診断書を書いてもらったそうです。もし救急車を呼んでいれば、金子さんの最期は本人の希望とはまったく違ってしまったかもしれません。

延命治療をして欲しくないという希望を家族に伝え、家族にも十分理解してもらう。そして主治医にも理解してもらう。それでもまだ足りないというのが延命治療を取り巻く現実のようです。

「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」

死後の準備はエンディングノートだけでは足りない

「もしもの時に備えて持病のことや延命治療、介護の希望を書いておきたい」という動機でエンディングノートを書くなら、病気になって死を身近に意識してしまうと書くことが難しくなるのは簡単に想像できます。

より直接的な「死後の準備」のためにエンディングノートを書くなら、現実問題としてエンディングノートだけでは足りません。残された時間がわかっているならエンディングノートを書くよりも実際に行動する方が確実だし、早いこともあります。

例えば、葬儀の希望を書いておくよりも自分で契約しておく方が確実でしょう。信託(しんたく)という仕組みを使うことで、相続人の意向で変更されることなく希望通りの葬儀を執り行う方法もあります。

それにエンディングノートに書いておくよりも直接伝える方が間違いがないし伝わりやすい。そう考えると、もしもに備えるという目的の場合、エンディングノートが活躍できる場面はおのずと決まってきそうです。

死ぬときはガンがいいと思う理由

ある方から「死ぬ時はガンがいいと思っている」という話を伺いました。この方は現在60代で10数年前にガンになりました。その数年後に再発、転移が見つかりました。

治療がうまくいって今は元気に過ごされているのですが、再発を経験しているのに死ぬ時はガンがいいと思う理由は何だと思いますか?

その理由というのは・・・ガンなら残された時間を知ることができるから

いろいろな準備ができるしお世話になった方にもお礼が言えるからということでした。

でもガンで亡くなるということはまた再発することを意味します。それでもある日突然に亡くなるよりは、ガンの方がいいと仰っていました。何度もガンと闘った方の言葉だけにとても重く受け止めました。

だから、もし亡くなるまでの残された時間がわかるなら、エンディングノートを書いている場合ではないのかもしれません。残された時間の中で葬儀やお墓の準備だって自分でやってしまおうという気持ちも理解できます。

でも、よほどの強い気持ちがなければ自身の葬儀の打合せなんてできるのだろうか?とも思います(果たして自分ならできるのか?)。

自分の死だけを見つめるエンディングノートはいらない

「死後のプロデュース(金子 稚子/PHP出版)」に、エンディングノートはいらないと書かれていました。といってもエンディングノートなんか不要だと全否定しているわけではなく、自分の死だけを見つめるエンディングノートはいらないということ。

死後のプロデュース

「死後のプロデュース」には金子 哲雄さんと稚子さんの「引き継ぎ」のことが書かれています。死後の準備を考える上で重要視されているのが、この「引き継ぎ」という概念で、残された人が、必要以上に悲しみすぎないようにできるのが、自分の死と死後を考えることであり、引き継ぎすることなのです。と紹介されています。

著者が考えるエンディングノートとは「自分のためではなく相手のために残すもの」。だから死ではなく、自分の生をより強く捉え直すきっかけと考えるならば、エンディングノートを書く意義があるということです。

「死の準備」であるならば、ノートに書き込むだけでは足りないのではないかと思うのです

これは他の雑誌で読んだ著者金子 稚子さんのコメントですが、金子 稚子さんは亡くなった哲雄さんの妻の立場からエンディングノートについて本を書いてほしいという依頼を断ったそうです。

断った理由は、哲雄さんがいわゆるエンディングノートを準備していなかったから

エンディングノートを書く代わりに、余命宣告を受けてから亡くなるまでの500日間で自分のお葬式からお墓のこと、会葬礼状まで亡くなった後のことの一切合切を自分できっちりセルフプロデュースしていたのでエンディングノートを書く必要がなかったそうです。

今すぐ亡くなったとしても、驚きませんという余命宣告を受けてからの500日間のことが「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」には綴られています。500日という時間が長いか短いかの捉え方は様々でしょうが、これだけの準備を気力・体力が限界に近づく途中の500日間でできるものなのか?ということに正直驚きました。

自分自身を省みるとまだまだ余力があるなぁと、恥ずかしくなります。自分の想いだけを優先することなく、奥様と時間をかけて話をして、決断を重ねてきたことで表現が適切かどうかわかりませんが最高のエンディングの準備ができたのだろうと想像します。

亡くなるその時まで自身の体験をもとに誰かの役に立つ情報を発信していきたいという金子さんの思いがこの本の根底にあると感じます。その背景には、世の中にお買い得情報を発信して、誰かに喜んでもらいたいという「流通ジャーナリスト」を目指した初心が深く影響しているということが読んでいてよくわかりました。

医師についてこんな一文がありました。

私を救ってくれたのは、医療技術の前にまず先生の「人柄」だったと思う。

僕の死に方 エンディングダイアリー500日

僕は技術も人柄もどちらもまだまだということを自覚をして、プロとしてスキルと人格を磨く努力をしていきたいと思いました。

エンディングノートの存在意義はどこにある?

突然、何か問題が起きたときには気が動転してしまい、前もって話ができていたとしても記憶があいまいになってしまうことは想像できます。

いざという時に「お父さん、なんて言ってたっけ?」じゃ意味がありませんよね。それに子供が何人かいたら「お父さんはそんなことは言ってなかった」と話が食い違うことだって考えられます。

たとえ腹を割って話しができたとしても時間が経てば忘れてしまうかもしれないので、後日確認できるように大切なことを書きとめておくことがエンディングノートの存在意義の1つです。

僕自身も両親にエンディングノートを渡したことがきっかけで、時間はかかりましたが両親から延命治療や介護についてどう思っているのかを聞くことができました。

何かしらきっかけがなければ、将来の医療に対する希望を家族で話し合うことはハードルが高いだろうと思うので、そのきっかけを作ることもエンディングノートの存在意義の1つだと思います。

また家族や大切な方と話をする前提として、自分の頭の中を整理するために書くというのがエンディングノートの終末期の医療のページのより良い使い方だと思います。

いかがでしたか?書いてみようという気持ちに待ったをかけるようで申し訳ありませんが、エンディングノートを書いておけばそれだけで安心ということはないということは肝に銘じてください。

頭の中を整理して、気持ちをまとめるためのツールとしてエンディングノートは最適です。まずはそこからはじめてみませんか?もしもに備えるにはエンディングノートだけでは十分ではありませんが、エンディングノートをきっかけに次の行動につなげていくことをおすすめします。

  • 家族や大切な人ともしものことについて話をする
  • 遺言を書く
  • 葬儀の契約をする etc

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司法書士・行政書士 伊藤 薫

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